相撲の起源は出雲にあった!?松江藩は相撲大国だった!
大相撲で活躍する隠岐の海関。
島根県出身の力士として有名ですね。
実は、島根県(出雲国)が相撲の発祥と深く関わりがあるのはご存知でしょうか?
当記事では、相撲の起源や歴史を振り返りつつ、出雲と相撲の関係、島根ゆかりの有名な力士についてお伝えしていきます。
目次
相撲の発祥地、出雲
相撲に関して、文献として二つの逸話が伝えられています。
古事記:建御名方神(タケミナカタ)と建御雷神(タケミカヅチ)
「古事記」に記される国譲り神話に、相撲の起源と思われる記述があります。
天照大神の使者、建御雷神は国を譲るよう迫り、稲佐の浜にて建御名方神と力競べをすることになります。
争いに勝つのは建御雷神。
約束通り、天照大神が大国主命から出雲の国を譲り受けます。(国譲り神話)
この力競べが、一般的に相撲の起源だと言われています。
日本書紀:当麻蹴速と野見宿禰
「日本書紀」には当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の力競べが記されます。
約2000年前、大和国に相撲では向かうところ敵なしであった当麻蹴速という者がいました。
当時の垂仁天皇(すいにんてんのう)は出雲の国に野見宿禰というとても力の強いものがいると聞き、二人に相撲を取らせます。
結果、野見宿禰は当麻蹴速をうち破り、喜んだ天皇は野見宿禰を家来に召し抱えることになります。
<埴輪を発明した野見宿禰>
ここで話が終わるところですが、この野見宿禰、非常に賢い人物だったようです。
当時、偉い人が死ぬと、古墳の周りに家来を生きたまま埋めていたのですが、野見宿禰その習慣を良くないとし、人や家や馬の形をした埴輪を並べるようにしたのです。
そのような立派なことをした野見宿禰は相撲の神様として崇められるようになります。
ちなみに、はにわや土器を作る「土師氏(はじし)」として、野見宿禰の子孫たちが活躍します。
古事記、日本書紀の力競べが現代の相撲の起源と一般的に言われています。
江戸時代の松江藩と相撲の関係
19世紀に入ると、江戸を中心として町人文化(化政文化)が花開きます。
その当時、人気があったものの一つが相撲でした。
不昧公として知られる、松江藩7代目藩主の松平治郷の代には、藩で多くの力士を抱えます。
享和元年(1801年)の番付けでは当時最高位でもある大関から上位6名を松江藩の力士が独占していました。
当時は、実力のある力士を抱える事で、藩の力をアピールしていたのです。
なぜ、多くの強豪力士を抱える事ができたのか?
現在の松江東本町の一部に御船屋があり、力士はここに家を与えられました。
また、扶持も受け取る事ができ、家の継続も許されており、引退後も安心して暮らせる環境が整っていたからです。
江戸時代から伝わる日本三大船神事の一つホーランエンヤ。
2019年に開催されて記憶に新しいですね。
船の先頭で華麗な舞を見せる剣櫂の衣装にも、当時流行っていた相撲の化粧回しがモチーフとなっています。
2019年ホーランエンヤ|歴史・みどころ・有料無料観覧席・交通規制をまとめました
松江藩お抱えの有名力士
当時最高位でもある大関まで登りつめた3力士をご紹介します。
釈迦ヶ嶽雲右衛門
現安来市出身の力士、通算成績23勝3敗1分1預で最高位の大関まで登りつめます。
一説によると身長は227㎝もあったといいます。
雷電為衛門
現長野県出身、通算成績254勝10敗2分14預5無。
最高位の大関在位が27場所あり、力士生活21年で10敗しかしていない伝説の力士です。
陣幕久五郎
現松江市東出雲町出身、通算成績87勝5敗17分3預。
島根県出身で唯一の横綱力士(当時最高位)。
滅多に負ける事がなく、「負けず屋」の異名までついた力士。
まとめ:相撲発祥の地はやはり出雲だった!?
出雲が相撲の発祥の地であることや、江戸時代に栄えた相撲文化についてご紹介しました。
今回、歴史を調べながら、とても興味深く感じる事がありました。
文化として栄え、のちの国技として成長していく相撲。
その起源が、もともと国の運命を決める砂浜での力競べだった、ということ。
不昧公の時代の松江藩が相撲王国であり、日本国内に相撲を通して権力をアピールしていたということ。
これは、当時大社参拝客増加のための観光誘致政策だったのでは?とも感じました。
もう少し、江戸時代の島根の歴史も調べていきたいな、と感じた次第です。
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